11 現代短歌入門
柳田国男 「百年の祭り」より
~かくの如き以前とは全く逆な状勢の下に在って、果たして一国古来の伝統なるものが、持続し保存し得られるものかどうかということは、その伝統保存の是非を討究する前に、ぜひとも一応は考えておくべき問題である。何となれば、仮に一国の伝統は守って失うべからざるものであると結論が出たとしても、事実保存しうる見込みがないのだとすれば、それは結局むだな国策に帰するからである。今日、我々の耳にする伝統論などは、果たして何が確かなる伝統であるかということも示していないのみか、それがかくして伝わったのだという筋道などは説こうともしない。かつては安全にそれの持続しうる組織が備わっていたのが、後には少しずつ弛み崩れ、心もとなくなろうとしているのではないか、ということも考えてみない。ただ有りそうなものだ、有って然るべきだと思って居るだけである。そんな気休めの原理だけでは、とうてい我々は活きていけない。
259ページ
* ところで、仕事は藤川駅の花屋さん。
働き出してから、6カ月か。
重苦しい水仕事である。奇怪な植物も多々、例えば、小さな壺をぶら下げたウツボカズラ、壺の中は下向きに棘が生え、落ち込んだ虫を捕食する。フィロデンドロンは、ひとのことばや祈りを理解するのだって。
恭子は、植物との交感を信じていて、留守中にポトスが寂しくないように、クラシックをかけてやるらしい。
わたし、専攻は森林資源学だった。樺や楢はまっすぐ育つのに、何がよくて、人為はさらに大きく、派手に、気まぐれな方向をとらせるのかねえ。
チューリップはチューリップであるために、なぜに15系統2500品種にまで分けられねばならなかったのか。
棘あり、毒汁あり、湿疹に悶え、芋虫がはい出し、このあいだは、サソリかと動転しちゃった。
店長以下女ばかりで、わたし、生理ナプキン飛び交う女子高の出だから、女くささに体が自然に添う、慣れとか気楽があって、常勤は二人、あとはパートばかりという構成も緩くて、もう6カ月か。
# by dokkokara | 2012-05-22 13:42 | 独狐管見 | Trackback | Comments(0)
10 テスト氏
ぼくらのそれぞれのなかには、他の諸原子のあいだに、強い分離性をもつ二つのエネルギー粒子で構成された重要な原子がある、とぼくは想像するんだ。 ~ 一方は大きな陽電子の永久運動で、この運動は重々しい持続音を発し続けている。内的な耳はその音の中に深い単調なことばを何の造作もなく聞き分けてしまうよ。わたししかいない、わたししかいない、わたししかいない、わたし・・わたし・・。ところでもう一方の、ちっぽけなどこから見ても申し分のない陰電子のほうは、きいきい声のあらんかぎりでわめきたて、片方のエゴイスチックな主題を残酷無残にくり返しえぐりたてるんだ、そうだ、だが、誰かいる・・そうだ、だが、誰かいる・・誰かが、誰かが、誰かが。つまり誰かほかの者がいるんだ。 72ページ
* 再び日曜日。本来、昼から始まり、ゆるやかに夜へ滑ってゆく。その途上はさまれる小さな夕刻に、パンジー夫人が、シルバーメタリックのボルボで帰ってきた。
白いチュニックの夫人が下げた袋は、白木屋スーパーのもの。この大きさですんだのなら、本日の特価はさしたる規模でなかったとみえる。
もう一方の手に、ゴボウが一本。直径3センチ、身の丈130センチはある。
駐車場を抜けて、表へまわった夫人は、袋を左手に、ゴボウを持つ手に移した。
左手で袋とゴボウを併せ持ち、袋は重力に従って垂らされ、そのあおりでゴボウは下がり地面に引きずられる。黒い頭に、わずかに灰色の毛が見え、さながら夫人の手に引かれた人形の風情だ。
ゴボウをタイル壁にもたせかけ、鍵をまわした。ドアは開き、夫人へ入った。白木屋の袋は抱かれて、ゴボウは残したままで。
時は5月。忍冬の花薫る日曜日。一日は昼に始まり、夜を長くするのだけど、今日は平日なみに朝がついた。つまり仕事があった。
恭子から交代を頼まれて、いつもどおり朝6時に目覚ましは鳴った。
仕事に努め、義理を果たし、夕方6時10分前に自転車をすべりこませ、アルファハウスの階段に足をのっけたとき、パンジー夫人がシルバーメタリックの箱から、夕顔のように咲き出てきたのだ。
夫人は白木屋の袋とともに家へ消え、ゴボウは外に残された。
# by dokkokara | 2012-05-13 13:29 | 独狐管見 | Trackback | Comments(0)
9 マヤコフスキー
ぼくは信じない。花咲くニースがあるなんて。
* その夜、夢を見た。
夜もずいぶん遅かった。庄司夫人は、ロッキングチェアを揺すらせて、緑の糸を編んでいた。
足元には、たくさんの靴下が、黄色、赤、大きいのや小さいの、形は同じに見えるのがわんさと散らばっていた。
届いたの、と夫人は聞き、はい、とわたしは答えた。
編むのは平気よ、と夫人はいった。あなたにも編んであげる。でも、糸はフランスの糸を用意してね。フランスの糸がいちばん滑らかで、美しいのよ。
それから、手を休めて、かわいそうな子、届かなかったのね、と呟いた。
庄司夫人の声はふっくらとして、母になろうとするもののように優しい。わたしは、自分が迷子だと知っていた。途方にくれて、先ほどから浮かび上がった思いにしがみついた。「ひとは、秘めるものなくて生きていけるだろうか」
# by dokkokara | 2012-05-06 13:25 | 独狐管見 | Trackback | Comments(0)
8 沈黙の世界
ことばの中に含まれているこの客観的なもの(真理)によって、ことばの中には個人が、別のことばでいえば主観が、そこから取り出してくることができるより以上のもの、個人が必要とする以上のものが宿っている。あらゆる人間のいのちの日々の最後にまで達し、更にそれをこえて生きのびるほどにも多くのものが、そこには宿っているのである。
この客観的なるものが存在しているために、人間はそのことばにおいていおうとしたより以上のことが、ことばの中で表現されることもしばしばである。だから、ことばによって人間は又しばしば、彼が自分自身の思想によってことばの中に納め入れたより以上のものを経験するのである。 30ページ
* そういえば、とわたしはいった。
そういえば、と庄司夫人は続けた。
庄司夫人は20分もたたぬうちに帰ってきた。下げていた袋のふくらみに変化はない。
そういえばね、と庄司夫人はまだ残っていたビールを取った。袋は地面に置かれ、いまや左手も右手も自由だった。
おもいきり仰向き、ビールを傾けた。唇からビールがあふれた。喉仏はダイナミックに上下し、ビールは奔流となって、夫人の太い食道を流れ下っているようだ。
おお、この飲みっぷりが、ご飯がおいしくなるくらいのものなのか。
そういえば、と庄司夫人がいった。そういえば、って、いつも人はあとになっていうのね。そういえば、あのとき、あの人は、ほとんど食事に手をつけなかった、ってね。それで、思い出したつもりになるのね。
それが、思い出したことになるのかしら。
そういえば、と今になっていうのは卑しいことだわ。中華料理の皿が回され、雲呑湯、どうぞどうぞ、わたしはほんの一口でいいから、とか、蒸水蛋、わたしの胃はほんとに小さくなったしまった、とか、清炒蝦、おいしそうだわ、ほら、食べて、食べて、とか。
あの人は笑って、この食事がとても楽しいのだと繰り返した。
あの人は、その日が近い、と知っていたのね。その日を見据えて、というのが大げさなら、予感でいいわ、予感して、ひとことひとことを間違いなくするために、我が身に打ちつけて物言いしたはずだ。
いまになって、そういえば、とつかみ出してくる。
もちろん、わたしにあの人の思い出がある。いくつもね。とりわけ、夏、あの人はサトウキビを畑で折ってかじらせてくれた。その薄い甘さはとても特権的なものだと感じたわ。叔母は、また、みっちゃんの食べたいものは何、と聞いてくれた。その日の夕食は味噌和えで、そんなふうにわたしの希望が直ちに実現されるなんて、そりゃ、わたし、相応にひとに愛されていたと思うけど、まずジンとくる記憶の筆頭なのよ。
けれど、思うのよ。あの人が、叔母が届けようとしたのは、そんな何十年も昔の、夏休みの絵日記みたいなのじゃなく、終わりの力で作り上げた、その姿、その声、このようなものとして覚えておいてほしいというような、完成像みたいなものじゃないかと思うの。
さて、と庄司夫人は缶を逆さにし、飲み終わったことを示した。
そういえば、何をいいかけていたの、さっき、あなた。
忘れちゃった、とわたし。思い出したら伝えます。
忘れたわけではない。宅急便が届いたと伝えるつもりだった。
庄司夫人の話はまだ続いているのだろう。まだ、ずっと、記憶を重ね、夕飯のビールとともに、思いを染ませ、それから、「そういえば」が生きる時間がくる。宅急便はそこで届けられるだろう。
# by dokkokara | 2012-04-29 13:10 | 独狐管見 | Trackback | Comments(0)
7 大地と休息の夢想
すべての内部は一つの羞恥心によって保護されている。 28ページ
* 「みどり、色。み、どり色。わたし、の好きな、み、どり、色」と庄司夫人は歌う。歌いながら、外階段を、一足ごとに体重をかけ、降りてくるから、歌はみじん切りに刻まれる。
「あらま」降り立ってにっこりした。
「明るくなったこと。いいやら、悪いやら」
「飲みますか」残った一缶を差し出す。
「いえ、酒気をおびるわけにはいかないわ」庄司夫人は下げている袋を振って見せた。
「こんどね。左手も右手も空いているときね」
庄司夫人の後ろ姿が十分遠ざからないうちに、千叔父は、
「彼女、また太ったね」
「いつ右手も左手も空いているのだろう」とわたし。
「夜だよ。毎晩」
「どうして知っているの」
「ぼくが買ってきてやるんだ」
「たくさん?」
「ふつう」
「ふつうって?」
「たぶん、ご飯がおいしくなるくらい」
「良い酒ね」
「さあ、太ったからね」
「太ってはだめなの」
「彼女は気にしている。どこかでつじつまが合わなくなるそうだ。良いとはいえないだろう」
叔父は話を打ち切った。ひょいと立ち上がって、決然と「懲役場」へ向かっていった。
# by dokkokara | 2012-04-14 10:45 | 独狐管見 | Trackback | Comments(0)
6 大地と休息の夢想
夢想家にとっては、存在が小さければ小さいほど、その機能が一層活発のように思われる。一つの小さな空間を生きることによって、存在は急速な時間を生きるのである。
29ページ
* 本日は日曜日。五月の草は安息日を知らない。
懲役場への道は、千叔父が刈り取る。他にもそれぞれ領地がある。のっぺらぼうの地に何か趣味を感じさせる場が季節とともに移動する。
たとえば、ちょぼちょぼ青い芽が並ぶのは、101号室の山崎さんの畑であり、いずれはとうもろこしを出現させるはずだが、去年はみごとな茎で終わった。その隣に、びっしり双葉をかたまらせているのは、202号室の庄司夫人の小松菜である。
みやびさんは丸テーブルと3脚の椅子を所有し、日景が移ろうに従って配置を変える。
三富君は102号室の窓から裸足で降り立ち、縄跳びをする。ボールを打ち付け、カンフーと称する足摺で草をねじ切り、実にきれいに地面を丸坊主にする。
201号室は、二階の一号室という意味であって、0はゼロにあらず、2と1を結ぶ橋渡しの「の」ということだ。「僕の絵」とは叔父にとっては、僕と絵の間には流れるもので隔たり、そこを「の」がかろうじて結んでいる、という「の」であるらしい。
それに、21よりも201のほうが視界が広がる数字だというのも、叔父の講釈である。
この庭はただ広い。だから、未開の地がまだあるのだけど、ある日、あるとき、叔父なりわたしが、切羽詰まれば、今日のような日曜日に、二人がともにバリカンとチェンソーを小脇に藪へ突進する。
バリカンは唸り、チェンソーは風を巻き、枝はあっというまに消え、藪は崩れ、光は踊りこみ、垣ははいつくばって、安全のためにゴーグルをつけた目は隣家の壁を、その苔とかびの成長と発展とを久しぶりに確認させ、境界、恐るるに足らず、と意気軒高である。
「戦場のようだね」重なり合った小枝を、足で返す仕草が、いかにも累々と重なり合った悲劇を思わせる。
「荒っぽいなあ。もっとこまめに手を入れるべきだ。月に一度はやろう。こんな荒っぽいのは性に合わん」
「髪切りと同じでしょうに。さっぱり、すっきり。でも、後始末が大変だねえ」
わたしたちは、ビールを片手に黙り込んだ。「こんな」とか「荒っぽい」とか「後始末」ということばにつまづいて、すっきり、さっぱりの散髪では片付かぬ、やるせなく、日曜日が陰ったような、必ず、はやくも、ビールが欲しくなるのだ。
# by dokkokara | 2012-04-07 10:25 | 独狐管見 | Trackback | Comments(0)
5 手招く美女
好きで選んだ道なんだから、いまさら引っ返すというわけにはいかない。だから、それに専念しているのである。おそらく彼はこの道を、無欲恬淡で高邁で気高いことに、わけもなくフラフラ飛び込んでいかれる年頃に選んだのであろう。そして今でも彼は、無欲恬淡と高邁と気高さのない人生は、自分の人生でないと固く信じていることを、常日頃自分に問いただしている。ごく最近は、それもめったにはないが、人生にはそれ以上のものがあるということを、漠然と考える時もある。しかし考えてみると、自分は必然的に年とともにだんだん衰えていくというのに、それを越えた彼岸で、自分の力の最大限に到達しようなんて、そんな日を予想するのは、とんでもない大それたことだ。それより自分はもっとささやかな、もっと手近な理想で自分を規制するほうが、より自分にかなった生き方ではないのかと、結局そんな問題に逢着するのが落ちであった。 265ページ
*とまあ、千叔父もまたそんなふうに考えているのかな。
# by dokkokara | 2012-03-31 12:58 | マルテの手記 | Trackback | Comments(0)
4 聖と俗
コスモス(宇宙)がいかほど大きかろうと、あるいは小さかろうとも重要なことは、常にそれが完全なコスモスであるということである。 35ページ
* 30億なんてでかすぎる。その集合のもっとも小さな部分集合、親しみのいちばん濃い部分、その要素を数えれば、30にも満たない。
わたしが住む「アルファハウス」、わたしが働く花屋さん、それを囲えば万端整う。そこから放射状に世界は遠くなる。
アルファハウスの大家は千叔父で、母、万の弟にあたる。
森林資源学は卒業させてくれたけど、その次がない。あるにはあったが2か月で辞めた。
千叔父がマンションの管理を条件に、アルファハウスの一室を提供してくれた。
マンションといっても、各階3室の二階家で、そのうちの2室をわたしと叔父が住んでいるから、4室分だけの収入である。
叔父もわたしも食えないから、ほかに仕事をし、マンションの管理を分担せざるをえない。
マンションとはおこがましいが、叔父は「アパート」のパの破裂音が嫌で、避けたいそうだ。
築40年の木造の贅沢感が今になってあり、部屋も窓も広く、庭もただ広い。
一角にはログハウスと称する、大きめの犬小屋めいたものがあり、これはアトリエであって、叔父にいわせれば「懲役場」なのだ。
ここで過ごす時間は多くない。ほとんどない。けれど叔父は「画家」との距離を決められないでいる。
苦労するのは嫌いだ、と叔父はガキ大将みたいな台詞をはく。そして腰まで伸びた草を刈りとって、懲役場へと向かう。
ペンキも剥がれたボロ家なのに、空室がなく、どころか、問い合わせが整理券でも発行できるほどにあるのは、賃料の安さが一番だけど、ただ広い庭、腐ってもログハウス、伸び放題の菩提樹の万緑叢中、見え隠れする白い板壁の洋館にうっかりと物語を紡ぐからであろう。
# by dokkokara | 2012-03-18 10:08 | マルテの手記 | Trackback | Comments(0)
この世の中には、何一つ想像だけで済ますことのできるものはない。どんなにつまらぬことでも、想像だけですむものなんか一つもないのだ。僕たちの予想も許さぬ一つ一つの細かなことが無数に存在し、それが集まってあらゆるものができているのだ。想像だけだと、ただ大急ぎでどしどし走りすぎるばかりだから、つい一つ一つ細かなことはうかつに見過ごされて、見過ごしたことにさえ気づかぬことがある。しかし、現実そのものはたいへんゆっくりした流れでおそろしく多様なものをいっぱい詰め込んでいるのだ。
169ページ
*そう、顔は問題ない。顔はすべて個体差なのだ。個体差は、生物史上億万年を積み重ねて今に残されたのだ。
わたし、専攻は森林資源学だった。
初めに、木材を見分ける修行を積まされる。小さな木のチップを何十個と渡され、オーク、杉、ラワン、アカシア、さくらに梅もどき、楡やら楠と見抜く。
確信できたのは、ヒノキと桐。桐の肌は暖かく柔らかい。ヒノキはこれがいたるところ、商品であろうが商品途上であろうが、なぜかヒノキと名札がかかるので。
修行の成果は、大山鳴動ネズミいっぴきってところね。
さいわい人間はチップにまで均質化されることなく、大小,高低、突起の形状、色の多様性、もったいないくらいの千差万別だもの。
世界には30億の人間がいるそうで、30億の人間を見分けられるという事態があるとすれば、それはとても悲劇的な、終焉を感じとるようなときであるにちがいない。それでも、ローズとオークを区別できなくても、一人を取り分けるに迷いはないだろう。
差別化って親疎の度合いなのね。人は人に添い、人よりほかに馴染みがない。なんだかつらい。
# by dokkokara | 2012-03-11 13:05 | マルテの手記 | Trackback | Comments(0)
2 マルテの手記
僕はまずここで見ることから学んでゆくつもりだ。なんのせいか知らぬが、すべてのものが僕の心の底に深く沈んでゆく。ふだんそこが行き詰まりになるところで決して止まらぬのだ。僕には僕の知らない奥底がある。すべてのものがいま知らない奥底に流れ落ちてゆく。そこでどんなことが起こるかは、僕にはちっともわからない。 10ページ
*時は5月、ごぼうを置いたのは、パンジー夫人である。
ほんとうの姓をわたしは知らない。表札がかかっていないので、個人情報保護は行き渡り、誰も知らず、探さず、教えず、まあ、われ関せず、ってところなので。
わたしの住むマンションの斜め向こうに、パンジー家はある。
わたしがここに住むようになって、向かい合ったドアが同時に開いたとき、こちらからはわたしが、あちらからは夫人が出てきて、わたしの視線はしっかり相手に固定されたけれど、夫人は完全無視で、すぐに背を向けた。
で、相手を見た瞬間、「あら、パンジー」と刷り込まれた。
さあ、それを説明するのはむつかしい。
目、鼻、口、すべてが輪郭線を際立たせ、曖昧なところがない。パンジーがほら、花のうちに、青、黄色、紫の色を明確に分担して収めきっているように。
ぱっちりした黒目の大きな瞳、太く短い鼻、薄いけれどくっきり山形の唇、それぞれがいかんなく存在を発揮し、互いに犯すところがない。パンジーに似ていない?
美人かといえば、どうも浮世を超えたところがなくて、肉感的で、他の美人とはくっつけられないような、けれど人目を奪う、どこにあっても際立つ人であろう。それで、パンジー夫人なのであった。
# by dokkokara | 2012-02-26 12:40 | 独狐管見 | Trackback | Comments(0)
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